ゆんゆん日誌

よろず・オタク・ブログ

最近よく考えていること/糸と失せもの・頭の中の網目

 気づいたら5ヶ月くらいブログを書いていなかった。書きかけのものはたくさんあるのに、完成にまで至らないのである。ま、趣味だしいいよね。
 この数カ月は、うっかりコナンにハマったり就活したり本を読んだりして過ごしている。とりわけ2月くらいからは、バレットジャーナル(と片づけ)に凝っていて、これもそのうち何らかの形で文章としてまとめられたらいいなと思っている。
 それにしても、そもそもこのブログはオタク文章を書くために作ったはずなのだが……。まあ、どうしても書いておきたいことがあるなら書いてもいいでしょう。いいかいブログ、お前は今日からよろずブログだよ!

 

・糸と失せもの
 私は物持ちの良さに関しては自負があるのだが、それと裏腹にしばしばモノを失くす。なぜ失くすのか考えてみたところ、どうも自分のADHD的な特性と関係があるのではないかという結論に至った。検査を受けたわけでもないし、受けたとしてもおそらくそのように診断されることもないであろうが、私がどちらかというとADHD傾向の強い人間であることは事実である。つまりワーキングメモリの容量が小さめなのである。したがって少し別のことをすると、数秒前に考えていたことを忘れて次の行動に困ったり、数秒前まで覚えていたのに忘れ物をしたり、ということが頻繁に起こる。このことは、モノを失くすことと次のように関係する。すなわち、数秒前まで持っていたはずのモノをどこに置いたのかが分からなくなり、結果的にモノを見失ってしまうのである。
 このモノを見失う感覚についてイメージするとき、いつも思い浮かぶシーンがある。「ちはやふる」という熱血かるた少女漫画があるが、主人公のライバルである若宮詩暢は札を取るとき、札と自分の繋がっている糸を辿るのだという。だから札を見失うことなく、誰よりも速く取れるのだと。この感覚は、モノを失くすときと似ているなと思う。モノを見失うとき、私はいつもモノに繋がる糸がぷつんと切れてしまっている状態なのである。こうしてこの20年間、数々のモノを失くしてきた。私だって切りたくて切っているわけではないが、油断すると意識や記憶とともに糸の先が途切れているのでなかなか厄介だ。予防策としては、とにかく持ち物を減らしてモノの住所(置き場所)を決めていくしかないだろう。はあ、今日も片づけが捗るなあ。

 

・頭の中の網目
 多読術の本を読むことがしばしばある。多読術や速読術の本を書いたり読んだりする人は物事の効率化を図りたい人が多いから、よくある?「じっくり読む本とそうでない本を分け、それぞれ通読する」というやり方に異論を挟む気はない。実際、池上彰氏と佐藤優氏の共著『僕らが毎日やっている最強の読み方』という本に書いてある読み方は私も参考にしている。しかしながら、書名は忘れてしまったので出さないが、ある多読術の書籍に書いてあった内容に納得がいかないでいる。曰く、本の一部でも読んだらそれでいいと。時間は有限なのだから、本を通読する必要はないというのである。まあ、ここまではいい。その通りだとも思う。まさかレポート課題に必要とはいえ、時間が足りないなか何冊もまるまる読み通すことは無理だ。私も必要なページだけを読み、必要な知識だけを得るということはよくある。ところが問題の著者は、通読することの大切さをフォローすることもせずにいるので驚かされる。それなのに読書は自己啓発に良いととくとくと語り、挙句の果てに読書をしない人とは縁を切ったほうがいいとも読める内容の文章を書くのだ。私は速読といえどもまるまる一冊に目を通すべきだという立場である。短編小説集でもない限り、その一冊まるごとが一つの完結した論理なのである。読書というのは、その本に収められた論理を追って頭の中に写し取るという営みであり、本の一部だけを読むというのは論理や知識を一部拝借したにすぎない。そのようなことも分からずに読書術の本を書いたのかと思うと鼻で笑ってしまう。
 読書の醍醐味は、頭の中に新たな思考の枠組みを作るところにあると思う。この枠組みがそれぞれ結びついたり、重なり合ってできるものが網目だ。ネットワークと言い換えてもいい。このネットワークが広がれば広がるほど、目が細かくなればなるほど、物事に対する感受性が豊かになり、深い論理的思考を行えるようになると思う。私のイメージでは、まず目が粗いと物事を認識することが難しい。網の目をすり抜けていくため、キャッチできないからだ。つまり、アンテナに引っかからないものを認識できるだろうか?ということである。認識できないものに対して、分析や推論を加えることができるだろうか?答えは否である。また、様々な枠組みが脳内に存在するということは、それだけ様々な立場の考え方を知っているということでもある。ということは、それだけいろいろな角度から考えを深められるということだ。
 頭の中に網目を作るには、一貫した論理を脳内にトレースするのが速い。『僕らが~』で読書術に関して2人が共通して言っていることは、まず1冊基本書を選び、それをじっくり読むということである。つまり、ある分野についての基本的な論理をトレースしてしまうということだ。そうすると基本的な思考の枠組み・網目が頭に入っているため、その分野の本がすらすらと読めるようになる。結果的に、速読及び多読ができるというわけだ。そして多読するほど論理がトレースされ、ネットワークが広がり網目が細かくなる。そこで話は戻るが、果たして本の一部を読むだけで、その本全体に一貫した論理を完璧につかむことができるだろうか?天才的に論理的思考能力に優れた博識な人以外には無理だろうと私には思われる。要は、思いあがるな、ってことである。もっと謙虚に読書に取り組みましょう。いや本当にね。